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AIは人間を超えられるか
ところで,今はやはりAIの方が人間より強いのですか?
ええ,現在は残念ながら。
1996年に、日本将棋連盟が発行している「将棋年鑑」が、全棋士アンケートとして「コンピュータが人間に勝つ日は来るか」という質問をしました。多くの棋士は「来ない」「永遠に来ない」などと回答していました。その中で羽生九段はただ一人具体的に年を指定して「2015年」と回答していました。実際にコンピュータとプロ棋士が対戦する「電王戦」が行われて,プロ棋士がコンピュータに勝てなくなってきたのは2013年から2015年だから,ほぼ的中と言っていいわね。
そんなにコンピュータはプロ棋士に勝てないと思われていたのですか?
1996年といえば,パソコンも普及し始めたところで,今とは性能が全然違うし,AIもまだあまり普及していませんでした。強さはアマチュアの初段程度と言われていました。当時将棋雑誌の編集長をしていた大崎善生は,2015年にコンピュータがプロ棋士に勝つようになるという羽生九段の回答が信じられなくて,本人に直接確かめたといいます。どういう方法で強くするのか尋ねると「局面、局面を覚えさせるのです」と羽生九段は答えたという。つまり一手、一手の積み重ねではなくプロ棋士の棋譜をインプットし、局面、局面でどういう手が選択されたかを覚えこませていくということでした。実際にソフトはそれと極めて近い方法で飛躍的に伸びていった(ディープラーニング:深層学習)と言われています。
ちなみに大崎善生はその後,早逝した天才棋士,村山聖の一生を描いた小説「聖(さとし)の青春」を書き,その後漫画化や映画化され,小説家として活躍しています。(映画では村山聖役を松山ケンイチさんが,羽生善治役を東出昌大さんが演じました。松山さんが,役作りのため,周囲が危惧するほど,体重を増量させたり,東出さんが,羽生九段が七冠を獲得した対局で実際に使用していた眼鏡を譲り受けていたり,と話題になりました)
チェスの世界では1997年,IBMのディープブルーが,実力世界一のガルリ・カスパロフに勝利しています。
チェスじゃもう勝ったところだったんですか?なら将棋でもコンピュータが勝っても不思議ではないのでは?
まあ,チェスはIBMが全力でわざわざ専用のスーパーコンピュータ作ったわけだしね。ソフトも会社をあげて作りました。
それにチェスというのは,駒を取られると盤上から消え去って,もう二度と戻ってきません。だから対局が進むにつれて局面が単純化されて収束していくのよ。その点将棋は取った駒を使い続けるわけだから対局が進んでも単純化せず,収束していかない。複雑さがまるで違うと考えられました。
「角換わり戦法」はAIによって捨て去られてしまうのか
2022年末,将棋ソフト「水匠」の開発者であるたややん氏が「角換わり腰掛け銀」という戦法(「親の顔よりよくみる』と言われるほどポピュラーな戦法)で, AIソフト同士連続対戦させたところ,先手百戦百勝になったとし,これを「水匠定跡」として公開しました。となると,当然有名なAIソフトは「水匠定跡」を徹底的に調べ上げ,後手が良くなる「抜け穴」を懸命に調べ上げました。しかしながら,その穴を見つけることはできず,ついに2023年5月8日,将棋ソフト「やねうら王」の公式アカウントが「角交換という戦型が終わった」とツイートして衝撃を与えました。1886局面の指し方を覚えればAIの評価値が必ず+300にできるというのです。将棋の角換わり(早々にお互いの角を交換する)という戦型では後手が勝てなくなり,この戦法は本当に消滅してしまうのでしょうか。
実際,2023年5月に行われた第33回世界コンピュータ将棋選手権においても,角換わりの戦型は激減していました。
実際最近のタイトル戦でも,後手が角換わりを拒否して雁木模様に指し進めている場面をしばしば見ます。プロでも角換わり腰掛け銀という戦法は以前より少なくなっている気はします。
あら,AIが従来の戦法に決着をつけて一つ消し去ってしまったということですか?
いえ,まだ,そうとまでは言えません。将棋AIソフトの水匠を開発した杉村達也さんによると,「将棋AIは野球に例えると,全ての打席で二塁打を打てる強打者のようなもの」だというのです。人間は,空振り三振もするし好球を見逃しもする(だからAIには勝てない)。しかしながら人間は「ホームラン」を打つことが可能だ,というのです。
AIの利用に最初慎重だった羽生九段は,AIについて聞かれて,「AIは1年経つと1年前のバージョンに7割から8割勝つと言われてるんですけど,今のバージョンも1年経つと駆逐されちゃうわけです。ということはその中に間違いがあるということですね。強いのは間違い無いんですけど絶対的に正しいとは思わない方がいいと思います」と述べています。AIの見つけられなかった読みの穴が見つかる可能性はまだあるのです。
実際,藤井七冠などは,AIが見つけられなかった詰みを見出したり,AIを超える手を何度も指してきました。
将棋界では昔から,この戦法では勝てない,と使われなくなった戦法が,新たな手の発見により復活するというようなことが繰り返されてきました。AI時代になって,AIの作り上げた定跡の穴を見つけることはなかなか難しくなったとは思いますが,それでも人間の力を信じたいですね。
羽生はずるい,羽生が勝率が高いのは当たり前だという謎理論
羽生七冠も強かったんですね。
もちろんですよ。最近新しい叡王戦というタイトルが増えて八大タイトルになっているけど,当時は七大タイトルしかなく,それを一時独占していました。序盤から中盤までで形勢を悪くすることが多かったです。解説者が,ああでもない,こうでもないとやってみても一向に良くなる筋が見つからない。それを,アッと言わせる手,いわゆる「羽生マジック」で逆転するのは中継を見ていてとても痛快でしたよ。
なるほど。それは面白そう。
昔,羽生九段が強いのは当たり前だ,という謎理論がありました。他の棋士は羽生九段と戦わなければいけないのに,羽生九段は羽生九段と戦わなくていい。ずるい。羽生九段と戦わなくて済むんだから勝率が高いのは当たり前だ,という理論です。
それ,理論ですか? (笑)
まあ,現在で言えば,投手大谷は打者大谷と対戦なくて済むからずるい,打者大谷は投手大谷と対戦しなくて済むからずるい,みたいなもんですか?
羽生世代(チャイルドブランド)
羽生九段の台頭に続いて羽生世代の棋士が続々と活躍して,将棋界を席捲するようになりました。羽生世代の特徴の一つとして当時普及が始まっていたパソコンのデータベースを活用したことが挙げられます。それまでは紙に記録されていた棋譜を写したり,コピーしたりして活用していたわけですが,データベースができたことにより同じ戦型を抽出したり,同じ盤面の前例を抜き出したりできるようになりました。
長く君臨してきた羽生世代ですが,流石に最近は羽生世代の棋士たちも高齢化し,また,若いAIで勉強してきた世代が台頭してきて,最近になってようやく世代交代が起きてきました。
藤井八冠は序盤はどうなんですか?
もちろん強いです。序盤,中盤,終盤,隙がありません。
羽生九段によると,「今回タイトル戦を戦うにあたって,対局記録をデータベースで調べていくと,作戦別にどれくらいの勝率があるかというのが出るんですよ。それをみると大体全部強いんですよ。大体8割か9割くらい全部勝ってるんで,作戦的にここが弱いとかここをつけばいいとかそういうのは基本的にない。だから,過去に無かったものの中で何か新しいものを見つけていくという形になるわけですね」ということです。
藤井八冠を始めとするAI世代は,AIで勝率の悪い戦型は基本的に指しません。羽生九段によれば,「若い人は,そういう技術があって,具体的な数字で見えてしまうので,そういうことになるのは仕方がないと思います。しかしそればかりでは戦法の多様性が失われていってしまう。遊びの部分,揺らぎの部分を見極めて,新しい可能性を探っていくということですね」と言っています。
羽生九段はオールラウンダーで,どんな戦型でも指しました。相手の得意な戦型をあえて受けて立つのです。相手の得意な戦型を受けるので,最初は負けることもありますが,対戦していくうちに対抗して,やがてそれを克服してしまうのです。
それについて聞かれた羽生九段は,「テニスのラリーとかやっていて,一番厳しいコースに打たれて返せた時が嬉しいじゃないですか。簡単に返せるコースだったらあまり楽しくなくて,ギリギリをつかれたれたところを打ち返すのが楽しいですよね」というような答えをしていました。
今回,羽生九段は「藤井九段相手でもやっぱり楽しいですか?」との質問に対して,「WBCがあったので野球の例えにしましょう。すごい強力なバッターがいて,どのコースに投げても打たれそう,このコースを投げて打たれた,じゃあ今度はこっちに投げてみようと。でまた打たれた,で,次どこ投げようかなという感じです。わかりますこれ,それって楽しいですか。どっか苦手なところがあるんじゃないかなと思って投げるわけですけど,また打たれるわけですね」
流石の羽生九段も藤井八冠には結構参っているようですね。羽生九段の得意技は経験のない,複雑な領域に持ち込んで,捻り合いに持ち込むことで,実際今回のタイトル戦でもある程度手応えがあったと思います。
羽生世代がパソコン世代なら,今の世代はAI世代ですね。
そうですね。AIの評価値の高い手と違う手を指すと,評価値は下がります。それぞれの棋士で評価値の低下をグラフにすると,他の一流棋士とと比べて,藤井八冠は一人低下率が小さくなっています。(つまり他の棋士と比べてAIの読みと一致する確率がかなり高いことを意味しています)
ただ,藤井八冠は,AI 評価値の低い手を指すこともあります。例えば初タイトルを獲得した2020年の第91期棋聖戦第二局において,23分の考慮で△3一銀を指すと,AIの評価値が大きく下がりました。プロからすると最初から候補手から除外してしまうような手でした。しかしその手以降,相手に王手をかけさせることなく勝利しました。その後の展開を読み切っていないと指せない手でした。AI ソフト「水匠」の作者・杉村達也氏によると,4億手(25手先)読ませた段階では5番手にも挙がりませんが、6億手(27手先)読ませると、突如最善手として現れる手だったそうです。藤井七冠は,プロが,最初から捨ててしまって考慮しない手の中に,優れた手がまだまだ埋もれていると考えているといいます。
谷川九段は藤井八冠について「感覚的な部分をできるだけ排除して,全てを読み尽くす,というようなAIの読み方に近いやり方に近づこうとしているのではないでしょうか。将棋を覚えてから10代にどのようなことを学んだか,というのが将棋の基礎になります。羽生九段は,それをリセットしてやり直さなければならないんですけれども,修行時代の感覚は残りますよね。同年代よりはAIに対する対応力は優れているとは思いますけれども,10代,20代の人とは少し違うのかなとは思いますね」
なるほど。修行時代からAIを使っている人はそれ以前の人たちとは違うと。
目隠し多面指しとプロ棋士の頭の中の思考方法
プロ棋士は目隠しで将棋を指すことができます。ということは完全に盤面を頭の中に持っているということですよね。佐藤康光九段などは目隠しで同時5人指しを行ったこともあります。
はあ,プロってすごいんですねえ。
プロが頭の中で見えている風景はどのようなものなのか。次は佐藤九段,森内九段両名に目隠し多面指しした後に行ったアンケートの答えです。
①対局中の、頭の中の情景は?
佐藤「活字ではない。暗闇の中に自陣と自分の持ち駒がぼんやりと見えている状態」
森内「普段の対局を思い浮かべています。実際の盤と駒を前にした、そのままです」
②五面(三面)の配置状況は?
佐藤、森内「一手ずつ、その局面だけ呼び出してくる。将棋盤がずらりと並んでいるわけではない」
③駒台は?
佐藤 「自分の駒台だけははっきり見えていた」
森内 「相手の持ち駒は見えなくても指せる」
④目かくし多面指しの限界は?
佐藤「目かくしは慣れが大きい。相手にもよるし、その時の状況にもよるが、十面までは可能かもしれません」
私なんか,詰将棋でも,継ぎ盤がないとちょっと先の盤面なんてわからなくなっちゃいます。実際に盤面で駒を動かさないとわかりません。弱いわけですね。
藤井七冠は,子供の時将棋道場で,目隠し詰将棋の特訓を1万題以上やったというからね。目隠しして,駒の配置を聞く。頭の中で将棋盤を構築して詰みを考えていく。私なんかには到底できない芸当です。でも,そうやって頭の中で先を読めるようになったんでしょうね。でも,おそらくプロにしてみたら,強い人と指すより,逆に全くの素人と目隠し将棋を指すのは難しいんじゃないかしら。相手の手が全く予想できないからね。
羽生九段は盤面を記憶する時,\( 9 \times 9 \)の81マス目を4分割して頭の中に描いているそうです。また,対局の時には,目の前の将棋盤はあまり見ておらず,五手先,十手先の局面を思い描きながら駒を動かしているといいます。
また,藤井八冠は,手を読む時,主に「符号」で考えているそうです。たまに盤面が出てきて,そこで形成判断をするんだとか。「いい手」のを発見した時には何かちょっと違うと感じることもあるといいます。符号で考えるという境地は私にはわかりません。
それにしてもプロが考えている時,頭の中でどんな景色を見ているのか,どういう思考のやり方で手を絞り込んでいくのか,不思議よね。棋士一人一人でも違うんだろうし。プロでも羽生九段や藤井八冠の頭の中は覗いてみたいんじゃないかしら。
その時の思考のやり方がAI世代とそれ以前の世代で違っていても不思議はないわよね。人間でも成長期における人格形成は環境の影響が大きいからね。
なるほど。修行時代の環境が棋士の思考方法に大きく影響しているかもしれないと。それは確かにあるかもしれないですね。
それはそうと,それを聞いて思ったんですけど,新型コロナ以来マスク生活が続いていましたよね。前にテレビの科学番組で,人の表情を見ることが人の成長過程において重要だ,という話を見たんですけど,マスク生活は人格形成に影響はないんですか?