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プリゴジンの乱
プリゴジンの乱はびっくりしたわね。どうなることかと思ったけど,あっけない結末だったわ。
でも,プリゴジンといえば,私たちにはどうしても別の人が思い浮かんでしまいます。1977年にノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジン( Ilya Prigogine )です。
あら,そんな有名なプリゴジンさんもいらっしゃったのですね。一体どんな仕事をされた方なんですか?
受賞理由は「非平衡熱力学、とくに散逸構造の研究」です。
散逸構造? 何やら難しげな名前が出てきました。散逸構造ってなんですか?
散逸構造(dissipative structure)とは
簡単にいうと「熱力学的に平衡でない状態にある開放系構造」のことを言います。難しいかな? 平衡状態はわかるわよね。
化学でやりました。
例えばコップに半分ぐらい水を入れてしっかりとラップをしておきます。最初はコップの中で水が蒸発しますが,やがて蒸発速度と水蒸気が水に戻る速度(凝縮速度)が同じになって,見かけ上何も起こっていないように見える状態になります。これを平衡状態と言います。
そうですね。熱力学では,取り扱う系の種類は孤立系・閉鎖系・開放系の大きく3つに分類されます。
孤立系は,周囲との間で、物質とエネルギーのどちらもやり取りしない系をいいます。我々の周りにはそんな系は存在しません。強いていえば宇宙全体が孤立系となります。ただ,熱力学の理論構築にはそういう仮想的,理想的な系を想定することが必要になります。
さっきのコップの系のように,物質のやり取りは行わないが、エネルギーのやり取りは行なう系を閉鎖系といいます。
それに対し,系と周囲の間で、物質・エネルギーのやり取りを両方行なう系を開放系といいます。
系の種類 | エネルギーの移動 | 物質の移動 | 自発変化の方向性判定 |
孤立系 | 不可 | 不可 | エントロピー |
閉鎖系 | 可 | 不可 | 自由エネルギー |
開放系 | 可 | 可 | 化学ポテンシャル |
うっ。熱力学。苦手なやつだ。
物質やエネルギーの出入りがあり,平衡状態にないにも関わらず,秩序ある構造をとる場合があります。エネルギーの散逸に伴って発生する秩序ある構造をプリゴジンは散逸構造と呼びました。
う〜ん。どういう現象のことを言っているのか,具体的に頭に思い浮かばないのですが・・・
液体を下から加熱した時に対流が起こるでしょ。その時に見られる構造をべナール・セルと呼びます。これが最も有名な散逸構造です。
お味噌汁を温めたり,お椀に注いでから冷える時,何かお味噌が対流している様子が見えるわよね。
ああ,これですか。これならほぼ毎日見てますよ,たぶん。っていうか意識もしてないけど。
この時どういう風になっているかというと,
という様に局所的に小さな安定的な構造をしてますね。隣り合わせで,時計回りと反時計回りが交互に並んでいて,一旦できると安定的に存在します。上から見ると,典型的には六角形の構造が見えます。こういう部分的構造をセル(細胞),この場合はベルナール・セルというのです。
ベルナール・セルは雲の気象衛星画像や,太陽の表面画像などでも見ることができます。
なるほどー。じゃ,私たち日本人は,毎日のように散逸構造を観察しているわけですか。単一民族ならぬ散逸民族ですね。
ところで散逸構造は他にもありますか?
ガスコンロの炎や,海の潮の変わり目にできる渦,台風,なども散逸構造です。物質は置き換わっているにも関わらず同じ形を保っています。
次にベロウソフ・ジャボチンスキー反応(Belousov-Zhabotinsky reaction、略してBZ反応とも呼ばれる)をお見せしましょう。これも散逸構造の一つです。この反応は,セリウム(IV)塩(Ce4+)とセリウム(III)塩(Ce3+)の濃度比が周期的に振動することによって起こります。
うわぁ,綺麗ですね。そうか,これも散逸構造なのか。
他にも,宇宙の大規模構造に見られる超空洞が連鎖したパンケーキ状の空洞のパターンとか,いろいろありますね。社会学,経済学においてもこの散逸構造が見られると注目されています。
でも,何よりも,私たち,生物自身が代表的な散逸構造なのですよ。
生物は散逸構造である
私たちが散逸構造? あれま,そうだったんですか?
はい,物質やエネルギーを外部から取り入れながら,エネルギーを散逸して,自己組織化された構造を安定的に保っている。散逸構造そのものじゃないですか。
でも,私たちの体って,置き換わっています?
常に置き換わってますよ。私の頬にある子供の時の傷は同じ形で残っているけど,それを構成している細胞も物質も全て置き換わっています。それなのに傷の形は変わらない。不思議ですね。そこに生物の生物たるメカニズムがあるわけですが。
私たちの体は一部を除いて全て置き換わっています。置き換わりの速度はその場所によって異なります。最も置き換わりが速いのは消化器の上皮細胞(消化器内部の表面にある細胞)で数日で置き換わります。
便とは何か?
ところで,多くの人が誤って認識していると思われるのは,便は食物残渣だと思っていることですね。
残渣,残滓,どちらでしょう。
用語としては食物残渣かな? どちらも残りかすという意味ですが,残渣の方が使い方が狭いというか,濾過したあとの残渣というような化学的に使うことが多い気がします。残滓はもう少し広く使えますし,文学的な比喩としても使われますね。(そういう悪習は昭和残滓だ,というような使い方)
だから食物残渣の方が一般的かと思いますが,食物残滓でも通じると思います。要するに,この場合は食べたものを消化したあとの残りかす,という意味ですね。
えっ? じゃあ,便は「食べたものを消化したあとの残りかす」じゃないんですか?
便が何からできているかの内訳は,まず水分が 60 〜 70 % 。これはいいでしょう。まあ,便の状態によってこの割合は大きく変わってきますけどね。それに対し,食物残渣は5%くらいです。
えっ,たったの5%ですか? じゃあ残りは一体なんなんです?
腸内細菌の死骸が10〜15%です。腸内には約1000種類,100兆個の細菌が生息していると言われています。お花畑に例えて,「腸内フローラ」と呼びます。どのような菌を持っているかは健康のためには極めて重要です。腸内フローラが悪い場合には「糞便移植(腸内フローラ移植)」を行う場合もあるんですよ。
げっ,そんな移植があるんですか? それにしても,食物残渣より腸内細菌の死骸の方がずっと多いとは驚きました。
最近は腸内細菌が免疫や精神に影響する仕組みに関する研究が盛んに行われています。ホットな分野の一つですね。
がんの免疫療法が効かない患者に効く患者の糞便移植をしたところ,40%の患者に免疫療法が効くようになった,という報告もあるそうです。
さて,さらにそれより多いのが,腸粘膜細胞の死骸で,15〜20%なのです。どれほど消化器の上皮細胞が早く置き換わっているのか分かりますね。
そうなのか。便がそういうものなんだとは知りませんでしたし,そんなに早く細胞が置き換わっていることも知りませんでした。
でも,例えば骨なんかは置き換わらないんじゃないですか?
置き換わりますよ。破骨細胞が骨を溶かし,骨芽細胞が骨を作り出します。置き換わる速度は年齢によって違いますね。
そうか,骨も置き換わってたんだ。
動的平衡
なんか学者さんがテレビで,「生物は動的平衡だ」というようなことを言ってたんですけど,なんか今のお話と似ているような気がします。
その通りです。あの「動的平衡」というのは,ほぼこの「散逸構造」のことを言っていると思っていいと思いますよ。(まあ,今回はこれについてこれ以上はお話ししません)
生物の体って,方丈記の,「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず」みたいなものなんですかね。
あっ,もしかして川も散逸構造ですか?
川は散逸構造とは言えないわねえ。でも,川に岩があって,そこに渦ができていたら,それは散逸構造だと思いますよ。
ところで,テレビアニメで「はたらく細胞」って見てた?
ええ。もちろん見てましたよ。学校の先生も勉強になるからぜひ見るようにと言ってました。
ええ。とても良くできてるわよね。学術的にもきちんとできているので,確かに勉強になります。
ただ,仕方がないんだけど,どうしてもおかしな点があるのよね。それは血液中の細胞の寿命が全く無視されている点です。
主人公の赤血球ちゃんは寿命が120日だからいいんだけど,可愛い子供たちの血小板ちゃんたちは寿命が10日ほど,救世主のカッコいい白血球たちは数時間から数日しか寿命がありません。馴染みの白血球さんにそう何度も巡り合う機会も本当はなさそうなんですよね。
なんか夢を壊されてガッカリです。
まあ,そう言わないで。生物,進化と,散逸構造に関しては,もっとじっくり時間をかけて書かなきゃいけないんだけど,今回はプリゴジンの乱による緊急ネタということで,これくらいにしておきます。今回は散逸構造プロローグということにしておきましょう。