脳の中のマップ
科学におけるOSINT 2(生物における磁気センサー) より
渡り鳥が渡りをする時に脳内にマップを作っているのではないかという話をしました。( 科学におけるOSINT 2(生物における磁気センサー) )
このマップのことを脳内 GPS なんて言ったりもします。実際の GPS とはメカニズムは全く違いますけどね。
イマヌエル・カントは,「純粋理性批判」の中で,「空間はアプリオリに(a priori:経験に先立って)脳の中で認識される」と書いています。
また,アルトゥール・ショーペンハウアーは,「世界は私の表象(representation)である」と述べています。
果たしてヒトの脳の中には,世界空間を認識したり,作り上げる能力のようなものはあるのでしょうか。
その話をする前に,脳の中にある,「海馬( hippocampus )」について話をしておきましょう。海馬って知ってる?
海馬ですかあ? 変な名前ですね。脳の中なのに「海の馬?」
海馬ってタツノオトシゴのことよ。
海馬は,脳の側頭部,左右に一つづつあります。タツノオトシゴに似てるでしょ。
では,海馬が何をしているかというと,記憶の司令塔的な役割を果たしています。記憶はまず海馬に入ります。そして,長期記憶に値すると判断されれば,大脳皮質に長期記憶を作ります。必要がないと判断されれば捨てられてしまいます。
だから受験生は,何かを暗記したら,海馬に残っているうちに復習しておかなければダメですよ。早いうちに繰り返し覚えましょう。一度覚えてもほったらかしておくと,残す価値が無いものとして捨てられてしまいます。
ズキッ。あまり復習してない。………だからいつまでも覚えられなかったのかぁ。反省。
海馬の働きの解明に寄与した H.M.
生前は名前は非公開であったが,2008 年の死後,名前がヘンリー・モレゾンであることが公表された。モレゾンは9歳の自転車事故のあと,てんかんを発症した。てんかんの原因は,大脳の一部が過剰に活動したために,その電気的影響が大脳全体に広がって,けいれん発作などの諸症状が起こると考えられている。難治性てんかんは,その部位を手術的に取り除く治療を行うことがある。モレゾンは両側頭部の海馬付近の除去を行った。その結果てんかんは改善したものの,記憶障害が起こってしまった。「逆行性健忘(過去の事を思い出せなくなること)」には問題なかったが,「前向性健忘(新しい事を覚えられなくなること)」が起こってしまったのである。短期記憶には問題なかったが,長期記憶ができなくなっていた。自転車の乗り方や楽器の演奏といったいわゆる,体で覚える,「手続き記憶」には問題なかったが,言葉で説明できる「エピソード(物語)記憶」ができなくなっていた。学習によって新たな運動や技能を身につけることはできたが,「その学習をした」,という経験は記憶できなかったのである。
海馬に存在する場所細胞(Place Cell)
さて,妻がカントの研究者である,ロンドン大学のジョン・オキーフ( John O'Keefe )は,その影響を受け,脳の中(おそらく海馬)に空間認識するための部位が存在するに違いないと考えました。1971 年,ラットの海馬に微小電極を刺し,ラットが四角い箱のなかで自由に活動するときの神経活動を計測してみました。すると,箱の中の左上に来たときに活性化する部位(ニューロン),右上に来た時に活性化する部位(ニューロン),といったように特定の場所に来たときにだけ反応する部位が存在していたのです。オキーフはこの細胞のことを,place cell(場所細胞)と名づけました。そして,オキーフ博士は,海馬の場所細胞によって空間の認知地図が脳内に作られる、という説を提唱しました。
当時はそんな細胞があるとは誰も思っていなかったそうで,論文は著名な雑誌からは掲載を断られ,さほど有名とは言えない雑誌に載ったそうです。真に画期的な研究にはあるあるの話ですね。
場所細胞ですかぁ。ついに出てきた,という感じですね。
場所細胞は海馬でエピソード記憶と深く結びついていると考えられています。匂いを嗅いだだけでその場所を思い出したり,恐怖とともにその場所が強烈な記憶となっていたりします。
嗅内皮質に存在する格子細胞(Grid Cell)
オスロ大学の同級生のマイブリット・モーセル( May-Britt Moser )とエドバルト・モーセル( Edvard I. Moser )夫妻は,オーキフ博士の研究室で場所細胞の研究を行なっていました。やがて彼らの興味は,海馬の隣にあり,海馬や場所細胞への情報の入出力を行っている「嗅内皮質」という領域に移っていきました。モーセル夫妻は,空間内を自由に歩き回るねずみの嗅内皮質に微小電極を刺して,ニューロンの活動を調べました。すると 2005 年,海馬と同様に,嗅内皮質にも,現在の位置に依存して発火するニューロンが存在することを見出しました。しかしそれは,場所細胞と異なり,正三角形で埋め尽くされた頂点のグリッドに来た時に発火するニューロンでした。これを彼らは grid cell(格子細胞)と名づけました。そのグリッドも,いろいろな大きさのグリッドがあるみたいです。
2014 年,「脳内の空間認知システムを構成する細胞の発見」に対して,オキーフとエドバルト・モーセル,マイブリット・モーセルの3人にノーベル生理学・医学賞が与えられました。
私の頭の中の方眼紙,ですね。
大学の同級生で,結婚して,一緒に実験やって,一緒にノーベル賞受賞かあ。カッコいいなあ。憧れますね。
ま,2016 年に離婚してるんだけどね。
脳の中のマップは,こういう場所細胞や格子細胞を中心として,頭の向きに反応して発火する頭部方向細胞(head direction cell)や,壁際などの環境の端にいるときに活動する境界細胞(border cell)などと共に作り上げられていると考えられています。また,霊長類においては,視点の先にある景観に反応する景観細胞(spatial view cell)が発達しています。
こうした情報を組み合わせて,経路積分とランドマークによる補正から空間ナビゲーションが成立している,という仮説も成り立ちます。まあ,どういうふうに脳内でマップが形成されているのか,今盛んに研究されているところですので,これから少しずつ明らかになっていくでしょう。
場所細胞とか,格子細胞とかは,ヒトでも確認されているのですか?
この実験をするには,上の図のような微小電極を脳の中に刺すらしいです。技術の進歩により数百個のニューロンの発火を観察できるようになったそうです。でも,周辺機器を小型化して,いずれ数千個,数万個のニューロンを観察したいとのことです。
で,当然動物と違って,人間にこんなもの刺す実験が許されるわけがありません。
てんかんの治療で電極を刺すときに,許可をもらって実験するそうです。電極をつけたまま移動はできないので,テレビゲームのヴァーチャルリアリティを使って空間移動させるらしいです。その結果,場所細胞や格子細胞はヒトにも存在するという結論になっています。また,MRI を使った実験も行われています。微小電極を用いた実験に比べると解像度は悪いですが,一応ヒトにも存在するという結果になっています。
なるほど。動物と違ってヒトだと色々と制約があるのですね。
トム・クルーズ細胞
ところで,てんかんの治療目的で頭に電極を刺した患者さんに,いろいろな画像を見せる実験を行いました。すると,トム・クルーズにだけ反応する細胞群(ニューロン)が見つかりました。アニメや女優の写真を見せても全く反応しないのに,正面からの写真でも,横からの写真でも,さらにただの文字情報でも,トム・クルーズに関する情報ならなんでも反応したそうです。面白いことに,その後,誰を見たか,と質問してみると,「トム・クルーズがいました」と答えるときにさえもそのニューロンは発火したそうです。
トム・クルーズに関することなら必ず反応する細胞かあ。
私たちはそれぞれ,自分の趣向に従って,その人特有のいろんな細胞を持っているんですかねえ。なんか見られたら恥ずかしいですね。